この章では、女性に対する性暴力や性差別用語を含みます。そちらをご留意の上、ご一読ください。
・ ・ ・ ・ 蘭瑛《ランイン》は項垂れた頭を上げるように、目を覚ました。 ぼんやりと映る視界が、段々と鮮明になっていく。 (ここは…、どこだ…?) 使われていない古びた部屋だろうか。埃っぽい臭いが充満している。どうやら身体は、柱に立つようにして縛り付けられ、両手は後ろで縛られているようだ。完全に身動きが取れない体勢だ。 視線を正面に向けると、見知らぬ男たちが蘭瑛を見て、蹂躙したい欲望にまみれた様子で笑っている。 蘭瑛が目を覚ましたことに気づいた女が、下品な男たちを払いのけるかのように、蘭瑛に向かって歩いてきた。 「目を覚ましたようね?蘭瑛さん。あの時は、私の腕を捻ってくれて、どうもありがとう」 「……」 蘭瑛の顎を掴みながら、蝋燭の灯りから醜い顔を見せたのは梓林《ズーリン》だった。 「悪く思わないでちょうだい。私の意思で、こんなことしてる訳じゃないから。ある人を怒らせたからこうなっちゃってるだけなの。あなたには残念だけど消えてもらわなきゃならない。ただ…あなた、容姿がいいじゃない?胸も豊満だし。そのまま消えてもらうのは忍びないから、最後に男たちに好きなように弄ばれて、凌辱されたらいいんじゃないかと思って、性に飢えてる男たちをここに集めたの。さあ、どれだけ耐えられるかしら?」 蘭瑛は何も言わず、梓林を怒りの目で一瞥した。 「そんな怖い顔で私の顔を見ないでくれる?あ、そうそう。王《ワン》国師は今夜外に出られてるそうなので、残念だけどあなたを助けてくれる人は誰もいないわ。今夜はひたすら、屈辱を味わってちょうだい」 身動きの取れない蘭瑛だったが、顎を掴まれていた梓林の手を何度も首を振りながら振り解き、口の中にたまたま入った指を、血が出るほど思いっきり噛んだ。 「…いたっ!何すんのよ!この傻屄《シャビー》が!」 梓林は怒りに任せ、蘭瑛の額を思いっきり平手打ちする。 すると、近くにいた髭面の男が面白がって近づいてきた。 「なぁ、いつになったらそこにいる艶々な豆腐を食べられるんだ?早く食わせてくれよ〜。俺たち腹ペコなんだ」 「あっそう。なら、とっととやってちょうだい」 梓林はそう言って、外に出て行った。 蘭瑛は静かに目を閉じた。 これまでも、華山の麓で蹂躙された女をたくさん見てきた。 何故、男は力のない弱い女を性の対象として虐めるのか。どうして自分よりも弱い者を守ろうとしないのか。男という存在を酷く憎み、凶器となった男根を猛毒で溶かしてやりたいと、心の底から何度思ったことか。それだけじゃない。無理矢理子を孕まされ、流産させて欲しいと、泣きながら堕胎剤を訴えてくる女もいる。その後は、想像を絶する痛みに吐きながら腹を抱え、大量の出血と闘わなければならないというのに。ここにいるような身勝手な男たちのせいで、こうしてまた、一人女の命と人生が狂っていく…。 (だから、男は嫌いだ!) 蘭瑛は心の中で叫んだ。 「さてと、どこからいこうか?とりあえず、そのたわわな豆腐を見せてもらおうか〜」 髭面の男が、蘭瑛の胸元を開こうとする。蘭瑛は必死に抵抗し、片足で男の股間を思いっきり蹴り上げた。 「うぅ…」と髭面の男は股間を押さえながら蹲る。 しかし、他の男が鉄の棒を何度も蘭瑛に向かって振り翳し、蘭瑛の右脚の骨を折った。 「あぁーっ!」 蘭瑛はあまりの痛さに声を出して唸る。 神経に寛解の術を施しても、熱を帯びた傷口から溢れる血は止まらない。普段は癒合の術で出血を止められるのだが、今は手が塞がって術を放出できない。 すると更に、追い討ちをかけるかのように、折られた右脚を勢いよく持ち上げられる。 蘭瑛は唐突に来る激痛に耐えられず、思わず悲鳴をあげた。 蘭瑛の陰部に汚い手が入り込む。もう為す術がない…。 蘭瑛は壮絶な痛みと絶望に涙を浮かべた。 「ははは、これから気持ちいいことするっていうのに、泣かないでくれよ〜。まるで、俺たちが悪いことしてるみたいじゃないか」 そう言われた蘭瑛は胸も脚も広げられ、そこにいた男たちの目を釘付けにした。 蘭瑛は、あとどれぐらい我慢すれば終わるだろうか…、と男たちに貪られながら考えを巡らせた。しかし、そんな思考は瞬く間に消え失せ、目がどんどん虚ろになり、遂には泣くことすらできなくなった。 人はあまりの恐怖と絶望を感じると、脳が萎縮し、ありとあらゆる部分が麻痺する。感情も感触も全て無になるのだ。 蘭瑛は、項垂れていた長い髪をグッと持ち上げられ、顔と頭を数回殴られる。力強く塞いでいた口を無理矢理開けられ、口の中にブツを入れられそうになる。 何度も拒んでいると頬と下顎を下から殴られ、酷い音が鳴ると同時に顎を外された。塞がらない口元から血が出てくる。 もう終わりだ…、と血が床に溢れ落ちた瞬間、バンッ!と勢いよく扉を蹴り上げる音が響いた。 蘭瑛は虚ろな目で視界を歪ませながら目を見開くと、剣光を光らせた冷酷無情な男が、冷風を吹かせてそこに立っているのが見えた。 (…永憐《ヨンリェン》…さ、ま…) 蘭瑛は永憐を見た瞬間、失われた五感が蘇り、恐怖と安堵が入り混じった涙がとめどなく流れ始めた。 永憐は梓林《ズーリン》の髪を根本から引っ張り、引きずりながら中に入ってくる。引きずられた梓林は「離してください!」と泣き喚き、暴れ狂っていた。想像を絶するほど強く掴まれているのか、梓林の頭皮から血が滲んでいる。永憐は誰もが凍りつくような殺気を帯びた目をして、梓林を引きずりながら蘭瑛の元へ歩いていく。 ここにいる男たちは皆、永憐の姿を見て、真っ青な顔で唇を震わせた。 永憐は梓林をの掴んだ髪を勢いよく離し、顔を床に叩きつけるかのように突き飛ばす。永憐はその後も、無言で蘭瑛に触れていた男たちの腕を掴み、一人ずつ石を砕くような音を立てて、骨を折った。 男たちの唸るような叫び声が、部屋中に響く。 「離れろ」 永憐の声は一段と低く、怒りが滲み出ていた。 蘭瑛を貪っていた男たちは痛みに悶絶しながら、一斉に蘭瑛から離れる。 永憐は着ていた衣も脱ぎ、蘭瑛に抱き寄せるように被せながら永冠《ヨングァン》で縄を切り解いた。 「もう大丈夫だ」 ふらついて立てない蘭瑛を、永憐は咄嗟に支える。 「脚を折られているのか?」 蘭瑛はぐしゃぐしゃに泣き腫らした顔で頷いた。 永憐はさっと蘭瑛を横抱きに抱える。 片手に永冠を持ちながら、殺気を漂わせた低い声で、男たちに尋ねた。 「蘭瑛の脚を折った奴は誰だ?」 『……』 「この者が誰の客人か分かっているのか!」 殺気立った永憐が怖いのか、殺気が宿る永冠が怖いのか、男たちは黙ったまま何も言えず怯えている。永憐は額に青筋を浮き立たせながら、永冠を勢いよく振り下ろした。 「もう一度聞く。蘭瑛の脚を折ったのは誰だ?」 「は、はい!わ、わたし…です。こ、この女が仲間を蹴ったんで…、あの鉄の棒で…な、殴りました」 永憐はその男の前に立ち、その男の脚に向かって永冠を振り下ろした。鮮血が勢いよく飛び散り、その男は叫びながら悶絶する。 「…わ、わたしは…、人間ですぞ!屍ではない…!」 「同等だ」 永憐はそう言い残し、無駄口を叩いたその男の胸を永冠で一突きした。 自分も殺される…と思ったのか、蘭瑛の胸を貪っていた一人の男が勢いよく外に飛び出そうとする。 しかし、外にいた宇辰《ウーチェン》に捕まり、腹を蹴られ、また連れ戻された。 その様子を見ていた男たちが次々と、永憐に向かって頭を下げ、許しを乞う。 「わ、私たちは彼女に何もしていません!ただ、ここにいただけで…、ほんの火遊びのようなもので…、そ、その…、どうか命だけはお助けください!」 「わ、私もただこの場に居合わせただけで…」 「ど、どうか国師殿…。この通りです」 永憐は氷柱の尖った先のような鋭さで、その男たちを一瞥する。そして永冠の先で、その男たちの顎を持ち上げ、冷たく言い放った。 「黙認するということは、容認していることと同じことだ。人間の尊厳も分からぬお前たちの命などいらん」 男たちは俯き、肩を落として落胆する。 永憐は蘭瑛を抱えたまま永冠を鞘に戻す。 すると、それを見ていた梓林が突然立ち上がり、女とは思えないけたたましい声をあげて、永憐の背中に向かって小刀を突き刺そうとした。しかし、すぐに宇辰が飛びつき、梓林に向かって一挙手を投じ、小刀を取り上げた。 「いけませんよ、梓林様。こんな物騒な刃を、この国の最高峰のお方に向けるのは」 宇辰は微笑みながら、小刀をバキッと素手で折った。 永憐も超人ではあるが、宇辰も永憐の護衛だけあって最強の手練《てだ》れだ。 「永憐様。この者たち、どうしますか?」 宇辰は目を三日月にして尋ねた。 永憐は真っ直ぐ正面を向いたまま、淡々と「全員残らず処刑しろ」と言い放ち、蘭瑛を抱えたまま部屋を出て行った。 三秒も経たないうちに、剣の擦れる音と男たちの唸り音が、蘭瑛の耳に入る。腕に触れられている永憐の手に、ほんの少し力が入ったのが分かった。 しばらく蘭瑛は永憐の腕の中で揺れる。 どこに連れて行かれるのか分からないが、蘭瑛は抱えられるがまま、ただ永憐の目鼻立ちの整った顔を下から眺めた。 いつも通り仏頂面ではあるが、紺碧色の瞳の奥は怒りで満ちているようだ。 蘭瑛はまた、瞳を閉じる。 永憐が来てくれなかったら、今頃、身体と精神は間違いなく崩壊していただろう。見てきた数々の強姦後の死体のように、自分も無惨な形で死んでいたかもしれない。蘭瑛は動かせない口を僅かに動かし、聞き取れない口籠った声で「ありがとうございます…」と囁いた。 それにしても、顔と頭が痛い…。思わず顔を顰め、何度も寛解の術を内側に放出するが、あまり効果はないようだ。自分が弱ると、当然ながら術の力も弱まる。蘭瑛はただひたすらに堪え続けるしかなかった。 身体が震えていたのか、永憐が急に立ち止まり、視線を蘭瑛に向けた。 「大丈夫か?」 蘭瑛はゆっくり目を開け、「…顔と頭が…、痛い…で…す」と、聞き取れるか分からない話し方で返事をした。 永憐は無言で、蘭瑛をもたれ掛かるように抱き直し、蘭瑛の頭を自分の胸元に寄せた。 「もうすぐで私の部屋に着く。もう少しの辛抱だ」 永憐はそう言って、また歩き出した。 居心地良くしばらく揺れていると、藍殿の門の前に到着する。永憐は蘭瑛をあまり動かさないようにと慎重に門を開け、中に入った。藍殿の中央の入り口でずっと待っていた梅林が駆け寄り、蘭瑛の酷い様子を見て悲しそうに涙を浮かべた。 「まぁ…誰がこんなことを…」 蘭瑛は薄らと笑い、小さく「大丈夫です…」と言った。 目線を少し横に向けると、梅林と一緒に蘭瑛の帰りを待っていた秀綾の姿があった。 「秀綾…」 蘭瑛からその言葉を聞いて、秀綾の目からはとめどなく涙が溢れ出した。 永憐が、蘭瑛に視線を向けながら口を開く。 「この者が、知らせに来てくれたんだ」 蘭瑛は秀綾の涙を拭うように、また小さく「ありがと…」と言った。 「梅林。すまないが、湯浴みの準備をしてくれないか?」 「もう、用意してあります」 「ならば、二人で蘭瑛を頼めるか?」 蘭瑛は永憐の住居の中にある湯浴み処まで運ばれ、梅林と秀綾に汚らしい悪魂に触られた身体を、隅々まで清めてもらった。・傻屄とは、”馬鹿な女性器”と言う意味であり、不快な人を表現する非常に失礼な言葉。 ・吃豆腐とは、性的に女性をからかう差別用語。胸を触りたい、食べたいという意味がある。
「シュウリィ〜ン。これどこにある?」 「え?あ、蘭瑛それは…、そこかな」 蘭瑛はこの宋長安の御用医家になった為、|秀綾《シュウリン》たちが働く医局に身を置くことになった。医局長だった|梓林《ズーリン》がこの世を去り、健全な医局に稼働させようと、男性ではあるが女性らしい振る舞いをする|江《ジャン》医官と|金《ジン》医官、秀綾と四人で掃除をしていた。 「⭐︎|阿蘭《アーラン》と|阿綾《アーリン》、そろそろお茶にしなぁ〜い?」 (⭐︎蘭瑛と秀綾を「阿」をつけてちゃん付で呼んでいる) 「いいわね〜、賛成〜!」 「だーめ。あともう少しで終わるから、そこにある芍薬と葛根と甘草、二段目の葯箱に仕舞っといて」 しっかり者の秀綾が、サボりがちな年上の江医官と金医官にダメ出しをする。すぐサボろうとする子どものような、このどうしようもないオカマ医官たちを見て、蘭瑛はクスクスと笑う。 「あんたも笑ってないで、早く仕舞って」 「ふぁ〜い。秀綾先生〜!」 蘭瑛はそう言って、残りの薬草仕舞いに勤しんだ。 そうしていると、以前は全くこの医局に足を運ぶ者はいなかったようだが、六華鳳宗の新しい医者が来たと噂が噂を呼び、「具合が悪くて…」と薬を貰いに来る者や、中の様子を見に来る者がちらほらと現れるようになった。蘭瑛は喜んで問診や調薬をし、症状に効くツボを教えたり、食事や睡眠、冷温効果などを伝え、まるで鳳明葯院で患者を診るように振る舞う。すると、たちまち医局は大盛況となり、秀綾もまた流医としての心得を取り戻したようで、不眠や予防医学に精を出した。忙しさに慣れていないオカマ医官の顔が、生気を取られたように疲れ切っていたことは言うまでもない。 医局の怒涛の忙しさを終え、外に出るともう日は暮れていた。 見上げた今日の星空は、一段と綺麗だ。 (それにしても、急にあんな押し寄せるなんて。ここにいる人たちは今までどんな風に過ごしていたんだろ…) 蘭瑛は今日のことを振り返りながら疑問を抱く。しばらく歩きながらぼんやりとしていると、まだ使用している客室の部屋の扉の前で梅林が立っているのに気づいた。 蘭瑛は驚き、何かあったのかと梅林に駆け寄る。 「梅林様!どうされたのですか?こんな時間に」 「あら、蘭瑛。ごめんね、夕餉時に。本当は…言わなくていいと
黄緑色の衣の上で、金の刺繍であしらった鳳凰を堂々と靡かせて、狡猾で残忍な女は窓から庭園を眺めている。 「光華妃《コウファヒ》姐さま、ご機嫌よろしゅうございませんね」 桃色の衣の上で、紅色の花を咲かせている女が茶を啜りながら言う。すると、光華妃は威嚇する時に広がる孔雀の羽のように、苛立たしさを含めた態度で扇子を広げた。 「そりゃそうよ。あの他所者医家が来なければ、今頃状況は変わっていたはずなのに!国師がまた余計なことをしでかしたせいで、目論みは台無しじゃない!」 「まぁまぁ、光華妃姐さま。今は少し様子を見ましょう。いずれは、一人ずつ消えていくでしょうから〜」 木漏れ日が雲に隠れ、明るく照らされていた紅色の花模様の衣が、薄気味悪い朱色へと変化していく。 「でも…」そう言いかけて、光華妃は扇子を勢いよく閉じ、白い歯を見せた。 「美朱妃《ミンシュウヒ》、あなたがくれた毒は最高の効き目だったわよ。本当に後少しだったのよ。次はもっと強いのをお願いしたいわ〜」 「姐さま、お顔が緩んでいらっしゃいますよ。毒の件は、また頼んでおきますね。この後の始末は、私にお任せしてもらっても?」 「えぇ。お願いするわ」 光華妃は長椅子に横たわるように身体を預ける。 美朱妃は「では、また」と言って侍女を引き連れ、光華妃の宮殿を後にした。 ・ ・ ・ 一方、永憐《ヨンリェン》と宇辰《ウーチェン》は屍《しかばね》が大量に発生したと深豊《シェンフォン》から知らせを受け、馬に乗って渭陽《いよう》へ来ていた。 深豊たちと合流し、惨憺たる屍の山の前で立ち止まる。 永憐は永冠を鞘から抜き出し、生き絶えた屍の顔や身体を器用につつく。 「深豊、何が起きている?」 「俺も分からねぇ。ただ、玄天遊鬼《ゲンテンユウキ》が絡んでることは間違いなさそうだ。ほら、ここ見てみろよ」 深豊は永憐と同じく剣を取り出し、剣先で屍の首の辺りを指した。 「黒い百合模様か…」 「そうだ。あいつは赤潰疫もだが、黒い花の模様をどこかに残して、傀儡《かいらい》を操ったりしている。恐らくこの屍たちも、玄天遊鬼に操られた後だろう」 深豊がそう言い終えると、突然、屍の山から数名の遺体が手足をおぼつかせてムクっと起き上がった。目は白く、明らかに自分の意思で動いて
蘭瑛《ランイン》は夢うつつな状態で目を覚ました。 見たことのない四角形に区切られた天井の梁を、ぼんやりと眺める。 (ここは…どこだろう…) 蘭瑛の動きに気づいた梅林《メイリン》が、水の入った茶杯を持って寝台に歩み寄ってきた。 「おはよう、蘭瑛。気分はどう?」 眠っていた全身の感覚が徐々に蘇り、顔や頭、折られた脚の痛みが全身に走る。蘭瑛は、効果があるか分からない寛解の術を自分に施し、痛みを抑えながら「…大丈夫です」と言い、上半身だけ起こした。 梅林は水の入った茶杯を蘭瑛に渡しながら話す。 「ここは永憐《ヨンリェン》様のお部屋よ。昨日、湯浴みをしている間にあなた気を失っちゃって、ここで寝かせればいいって永憐様が…。一晩中、ずっと側にいてくださったのよ。永憐様は昨日のことを報告しに、朝早くから帝のところへ行かれているわ」 「…そうでしたか」 蘭瑛は少し間を空けて「秀綾《シュウリン》は?」と尋ねた。 「永憐様と一緒に帝のところへ行ったわ。今までのことを全部話すそうよ。あなたがこんな目にあって、皆責任を感じているわ…。もちろん私もよ。もっとあなたを気にかけていたら、守れていたかもしれないのに…ごめんなさいね」 蘭瑛は目尻を垂らして、首を小さく横に振った。 ここにいる者は誰も悪くない。悪いのは全て光華妃《コウファヒ》だ。皇后という立場を濫用し、賢人と服従関係を結び、自らの手は汚さず人を排除しようとする。 なんて卑怯で悪辣な女なんだ! 蘭瑛は怒りをぶつけるかのように、自由に動く左腕で掛け布団を叩いた。 心的外傷は身体についた傷よりも深く、後になってやってくると言われている。怒りと共に、段々と昨日味わった恐怖も蘇り、蘭瑛は目を赤くしてまた涙を浮かべた。 「蘭瑛…大丈夫?よしよし…」 梅林はそう言って、蘭瑛の背中と頭を交互に撫でた。 蘭瑛は、梅林の手があまりにも温かく感じ、母親に頭を撫でてもらった幼い頃を思い出した。 そんな感傷的に浸っていると、突然「ぐぅ〜」と情けなく腹が鳴った。 梅林は口元に手を当てながら、クスクスと笑いだす。 「お腹はいつもの蘭瑛のようね。美味しい芋粥を作ってきてあげる!それまで、少し横になっていなさい」 梅林にそう言われ、蘭瑛は口の中に溢れてくる涎を飲み込み、また寝台の上で横になる。 今は、傷の痛みで体
この章では、女性に対する性暴力や性差別用語を含みます。そちらをご留意の上、ご一読ください。 ・ ・ ・ ・ 蘭瑛《ランイン》は項垂れた頭を上げるように、目を覚ました。 ぼんやりと映る視界が、段々と鮮明になっていく。 (ここは…、どこだ…?) 使われていない古びた部屋だろうか。埃っぽい臭いが充満している。どうやら身体は、柱に立つようにして縛り付けられ、両手は後ろで縛られているようだ。完全に身動きが取れない体勢だ。 視線を正面に向けると、見知らぬ男たちが蘭瑛を見て、蹂躙したい欲望にまみれた様子で笑っている。 蘭瑛が目を覚ましたことに気づいた女が、下品な男たちを払いのけるかのように、蘭瑛に向かって歩いてきた。 「目を覚ましたようね?蘭瑛さん。あの時は、私の腕を捻ってくれて、どうもありがとう」 「……」 蘭瑛の顎を掴みながら、蝋燭の灯りから醜い顔を見せたのは梓林《ズーリン》だった。 「悪く思わないでちょうだい。私の意思で、こんなことしてる訳じゃないから。ある人を怒らせたからこうなっちゃってるだけなの。あなたには残念だけど消えてもらわなきゃならない。ただ…あなた、容姿がいいじゃない?胸も豊満だし。そのまま消えてもらうのは忍びないから、最後に男たちに好きなように弄ばれて、凌辱されたらいいんじゃないかと思って、性に飢えてる男たちをここに集めたの。さあ、どれだけ耐えられるかしら?」 蘭瑛は何も言わず、梓林を怒りの目で一瞥した。 「そんな怖い顔で私の顔を見ないでくれる?あ、そうそう。王《ワン》国師は今夜外に出られてるそうなので、残念だけどあなたを助けてくれる人は誰もいないわ。今夜はひたすら、屈辱を味わってちょうだい」 身動きの取れない蘭瑛だったが、顎を掴まれていた梓林の手を何度も首を振りながら振り解き、口の中にたまたま入った指を、血が出るほど思いっきり噛んだ。 「…いたっ!何すんのよ!この傻屄《シャビー》が!」 梓林は怒りに任せ、蘭瑛の額を思いっきり平手打ちする。 すると、近くにいた髭面の男が面白がって近づいてきた。 「なぁ、いつになったらそこにいる艶々な豆腐を食べられるんだ?早く食わせてくれよ〜。俺たち腹ペコなんだ」 「あっそう。なら、とっととやってちょうだい」 梓林はそう言って、外に出て行った。 蘭瑛は静かに目を閉じた。 これまで
目の前にいる秀綾《シュウリン》は、背が高く細身で、目と同じ淡い朱色の髪を乱していた。 「お願い!中に入れて!話があるの!」 秀綾は更に目を赤くして、蘭瑛《ランイン》に尋ねる。 蘭瑛は永憐《ヨンリェン》に言われた事を思い出すが、「ど、どうぞ…」と言って、秀綾を部屋の中に入れた。 「突然尋ねてごめんなさい。あなたにどうしても伝えたいことがあって…」 蘭瑛は秀綾を使っていた椅子に座らせ、六華鳳宗から持ってきた白茶を淹れた。秀綾は息を整え、話し始める。 「あなたの命が危ないの。梓林《ズーリン》があなたを殺そうとしてる」 眉間に皺を寄せた蘭瑛は「ズーリン?」と尋ねながら、白茶の入った茶杯を秀綾の前に置いた。 「そう、あなたがこないだ手首を捻ってたあの人。あ、ありがとう」 秀綾はそう言って、茶杯を手に取った。 一口口に含んだ後、秀綾はひと息ついて、また続ける。 「梓林は、光華妃《コウファヒ》と繋がっていて…」 「ちょ、ちょっと待って。光華妃って誰?」 蘭瑛は、手を前に出しながら秀綾の話を遮り、知らない宋長安の妃について尋ねた。 秀綾は、何も聞いてないの?と言わんばかりに、相関図のようなものを紙に書き始める。 「いい?この二人は服従関係にある。これまでも、たくさんの人を追放したり、消したりしている。今回の皇太子殿下の件も光華妃の謀反。皇太后の他にも妃は二人いて、朱源陽《しゅうげんよう》から来た美朱妃《ミンシュウヒ》と、青鸞州《せいらんしゅう》から来た雹華妃《ヒョウカヒ》がいる。賢耀殿下の母君、元皇后の紫秞妃《シユヒ》は三年前に亡くなっていて、今は光華妃とその息子の光明《コウミン》殿下が偉そうに立ち回ってる」 「はぁ…」 (色々と複雑そうだな…) 秀綾の説明を聞いた後、蘭瑛の頭の中にふと永憐と賢耀の二人の姿が浮かんだ。立場を超えて、互いの名を『耀《ヤオ》』と『永憐《ヨンリェン》兄様』と呼び合うほど親しい仲なのは、ただ単に仲が良いからではなく、この宮殿に潜む蜘蛛の巣のように張り巡らされた無数の手から賢耀を守り、関係性を世間に知らしめる為なのだろう。時々、賢耀が幼さを見せるのも、母親の死が影響しているに違いないと蘭瑛は思った。 そのあとも、秀綾から光華妃の狡猾で尊大な醜悪を聞かされ、蘭瑛は複雑な宋長安の人間関係を少しだけ知った気がした。 蘭瑛
「…し、知りません…」 「そうか。ならば用はない」 人影はまた剣光を放ち、男の喉を瞬く間に突き刺した。 刃の先に注がれた剣気と鮮血が入り混じり、不気味な血腥さが漂う。 人影の口元が僅かに動いた。 「必ずや…この手で見つけ出し、遺恨を晴らす…」 人影は、苛立ちを込めた表情で剣の柄を力強く握り締め、地鳴りを轟かせるように地面を穿った。 ・ ・ ・ 翌日。 蘭瑛《ランイン》は賢耀《シェンヤオ》がいる宮殿で、痙攣するかのように顔を引き攣らせていた。 「ねぇ、お願い!一緒に永徳館《よんとくかん》へ来てよ。蘭瑛先生がいてくれたら、きっと永憐《ヨンリェン》兄様も許可してくれるから〜」 どうしても永憐の稽古に参加したい賢耀は、蘭瑛同席なら、稽古に参加してもいいんじゃないかと、打診してきた。 賢耀の身体はもうほぼ回復していた。 しかし、異様な回復劇だったものの、まだ回復してから二日しか経っていない。 蘭瑛は悩みながら梅林《メイリン》と顔を見合わせる。 梅林は大きく息を吸いながら、頬に手を当てながら呟いた。 「そうねぇ〜。とても元気そうだけれど…。永憐様が何ておっしゃるか…」 「ん〜、ですよね…」 蘭瑛は目尻を垂らし、困り顔で続ける。 「それに…私のような部外者が永徳館へ行ったら、怒られませんか?」 「それは問題ないと思うわよ。毎日、黄色い声が飛び交っているから」 梅林はクスクスと笑っている。 (黄色い声?虫か何かか?) 女の熱烈な感情に疎い蘭瑛は、その声の主が何か分からず、首を傾げた。 賢耀は吹き出すように高笑いし、「行ってみれば分かるよ」と言った。 蘭瑛は賢耀に、半ば強引に連れて行かれ、仕方なくといった様子で、永徳館へ向かうことになった。梅林は食材を取りに行くと言って、途中で別れた。 宋長安の宮殿内はとてつもなく広大だ。少しでも迷ったら、客室どころか藍殿にすら戻れないだろう。蘭瑛はキョロキョロと辺りを見回しながら、進んだことのない道を、賢耀たちに続いて歩いていく。 しばらく進むと、区切られた敷地内にある立派な木造の建物から、木刀のぶつかる音が何層にも連なって聞こえてきた。その奥では、物珍しそうな芸を見るかのように、宮殿内の女たちが、目を光らせて集まっている。 蘭瑛はその光景に思わず目を瞠った。 すると、突然。耳を